天地大宇宙に溶け込む

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懐かしい故郷で心くつろがせる

懐かしい故郷で心をくつろがせましょう!

ただただ安らかで、幸せな境地に浸る

ときには自分の心の奥底を静かに眺めよう

気功には、立って動きながらする動功、坐ってする坐功、寝てする臥功と、様々な種類があります。

動功と聞いて、カンフー映画などを思い浮かべる方は、随分と勇ましいものに思われるかもしれませんが、基本的には、坐功(坐禅)や臥功と同様に、もの静かで、内省的なものといっていいと思います。

ゆっくりと、ゆったりと、吐く息、吸う息に合わせて、まるで舞いを舞うかのように、体を動かしていると、いつしか心は静かに透明となり、静謐な空気が辺りに漂うかのようです。

動いてはいるのですが、その動きはひたすら静へと向かう動きであり、静が極まれば、そこで動き(すなわち呼吸)が転換して、再び静へと向かう動が始まります。

その静謐な動きは、陽から陰、陰から陽へ、また剛から柔、柔から剛へ、という無限の生成流転を繰り返し、しかし静謐さが増せば増すほど、故郷である太一へと、無限連鎖の中で遡って、ある種瞑想状態にありながらも、心はクリアに澄みわたります。

そんなときは、まるで天地大宇宙に溶け込んで、至福の境地とはこういうことをいうのかと、そんな気持ちにさえなります。

幸せとは何か、というのは、それこそ人によって感じ方もまちまちでしょうが、でも、朝早く起きて、上る朝日が辺りを朝焼け色に染め上げるとき、また、沈む夕日が界隈を夕焼け色に照らすとき、ほとんどの人はあまりの美しさに、心なごませるのではないでしょうか。

あるいは、街中や路地、公園などを、ただゆっくりと心静かに歩いているとき、普段は目にも留めなかった草花が目にとまり、その可憐な姿に、心を洗われ、幸せに感じたことはなかったでしょうか。

先に「太一って、何?」の項で紹介した易経によれば、(生かじりの適当な解釈で恐縮なのですが)天(純陽、万物を生成する元気)は元々、円満で充足し、健やかなるものであり、地(純陰)が天の徳をそのまま一切、無条件に受け入れるとき、全ては安らかである、といいます。

⇒ 太一って、何?

ということは、牽強付会を承知でいえば、大地の子である人が、一切を無条件に受け入れ、無為自然の境地にある(遊ぶ)とき、健康も自ずからそこにある、という言い方ができはしないでしょうか。

まぁ、そんな小賢しい理屈はさておき、いろいろなことを外へ外へと追い求めるのではなく、ときには自分の心の奥底を静かに眺めて、ただただ安らかで、幸せな境地に浸ってみてはいかがでしょうか。

それこそが、気功そのものだと思うのです。